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【河鍋 暁斎】☆買取コム

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    こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

    今回は河鍋 暁斎です。
    1831年の今日は河鍋 暁斎の誕生日であります。

    河鍋 暁斎とは、幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。

    明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残している。
    狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号している。
    その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されている。
    最初の妻の父は鈴木其一、三番目の妻から生まれた長女暁翠、次男暁雲も日本画家。

    天保2年(1831年)、下総国古河(茨城県古河市)に生まれる。
    父は古河藩士(養子)の河鍋記右衛門であったが、天保3年(1832年)に江戸へ出て幕臣の定火消同心の株を買って本郷お茶の水の火消し屋敷に住み、甲斐姓を名乗る。
    同時に一家は揃って江戸に出ている。
    幼名は周三郎といい、河鍋氏を継いだ。
    兄に直次郎がいた。
    天保4年(1833年)、周三郎は母につれられ館林の親類、田口家へ赴いた。
    この時、初めて周三郎は蛙の写生をした。

    天保8年(1837年)、浮世絵師歌川国芳に入門。
    天保10年(1839年)5月、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を写生し、周囲を吃驚させたという「生首の写生」の伝説を残す。
    天保11年(1840年)、国芳の素行を心配した父により狩野派の絵師前村洞和に再入門。
    翌年洞和が病に倒れたため、彼の師家にあたる狩野洞白に預けられた。
    弘化3年(1846年)には小石川片町からの出火で火消し屋敷も消失してしまうが、このとき火事の写生をしている。
    嘉永元年(1848年)に、現存する暁斎最初期の肉筆作品「毘沙門天之図」を制作している。
    翌嘉永2年(1849年)、洞白より洞郁陳之(とういくのりゆき)の号を与えられる。
    さらに嘉永3年(1850年)11月には秋元藩の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称している。

    嘉永5年(1852年)、遊興がたたって(珍しい帯の写生をするために女中の尻を追っていって誤解されたといわれる)坪山家を離縁され、暫くは苦難の時代が続いた。
    しかし安政2年(1855年)10月2日に起こった江戸大地震の時に仮名垣魯文の戯文により描いた鯰絵「お老なまず」(玩具荘コレクション)によって本格的に世に出ることとなった。
    この鯰絵は地震で壊滅した遊廓の吉原が仮店舗で営業しているという広告のようなもので、暁斎の錦絵第一号であったが、それは歌川豊国風の女性と鯰の格好をしている遊び人の組合せで、彫りも悪く暁斎にとっては名誉ある処女作とはとても言いがたいものであった。
    浮世絵では北斎の画風を学んでいる。
    橋本雅邦によると一般に入門から卒業まで11、2年かかると記しており、9年で卒業した暁斎は優秀といえる。
    安政4年(1857年)、江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継ぐ。

    安政5年(1858年)、狩野派を離れて始めは「周麿」を称し、のちに「惺々暁斎」と号し浮世絵を描き始め、戯画・風刺画で人気を博した。
    他に酒乱斎雷酔、酔雷坊、惺々庵と号し、明治18年(1885年)には仏門に入り、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号した。
    この後『狂斎画譜』『狂斎漫画』などを出版、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るった。

    1868年(明治元年)、徳川家の転封とともに静岡へ移る。
    明治3年(1870年)10月6日、上野不忍池の長酡亭における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描いたが、政治批判をしたとして逮捕投獄。
    翌年の出獄後は「暁斎」を名乗る。
    この「狂斎」から「暁斎」への改号は、改心というよりは愚かな挑発で二度と痛い目を見たくないという自分への警告の意図であったといわれる。
    また同時に「猩々」を「惺々」(せいせい)に変えたとも伝えられる。

    明治3年から絵日記をつけ始め、亡くなる1か月前まで書いた。
    20年も書いたが発見されているのは4年分である。
    書かれた人の似顔絵が似ているばかりでなく、ありとあらゆる事を記録し、金の支払いから、毎日の天候まで記し、気象庁でも毎日の天気の記録は明治14年(1881年)、からであるから、彼の記録は貴重である。

    明治4年(1872年)仮名垣魯文の『安愚楽鍋』、『西洋道中膝栗毛』などの挿絵を描く。
    明治5年(1873年)ウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、日本庭園入口に立てられる。
    明治9年(1876年)、エミール・ギメらの訪問を受ける。
    ギメが連れてきた画家フェリックス・レガメと互いに肖像画を描いて競い合った。

    明治13年(1880年)、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」(早稲田大学演劇博物館蔵)を4時間で描く。
    明治14年(1881年)、第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」(栄太楼蔵)が「妙技二等」を受賞。
    暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたという。
    建築家ジョサイア・コンドルが入門。
    「暁斎絵日記」により、大半は散逸してしまっているが明治3年(1870年)頃から明治22年(1889年)3月頃の暁斎の私生活の状況が、ある程度把握できる。
    例えば明治17年(1884年)2月26日に、「客山本、フキノトウ、大島屋、卵。
    笹之雪参る」とあり、大島というのは、尾形月耕に代わって月耕の弟・名鏡次郎吉の面倒を見ている親戚のことではないかと思われる。
    笹之雪は、台東区根岸にある暁斎馴染みの豆腐専門料理屋である(正確には「笹乃雪」、今日でも根岸名物で著名)。
    同年狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承した。

    岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。
    墓所は谷中にある瑞輪寺塔中正行院、戒名は本有院如空日諦居士。
    墓石は遺言により暁斎が好んで描いた蛙を象っている。

    ご自宅に、浮世絵や水墨画等御座いましたら、
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    筆:S
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    【テオドール・セヴェリン・キッテルセン】☆買取コム

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      今回はテオドール・セヴェリン・キッテルセンです。

      テオドール・セヴェリン・キッテルセン (Theodor Severin Kittelsen、1857年4月27日-1914年1月21日)は、ノルウェーの画家。
      ノルウェーで最も人気のある画家の一人である。
      主に自然を描いた絵画 (風景画)と、伝説や説話の絵画、特にノルウェーの伝承に登場する妖精、トロール (troll)を描いた絵画で有名。

      テオドール・キッテルセンは、ノルウェー南部ブラッツベルグ県の沿岸の街、クラーゲレー(ノルウェー語(ブークモール)版)で生まれる。
      父は、テオドールが幼い時に苦しい生活の中、妻とテオドールを含む8人の子供を残して亡くなっている。
      その後、テオドールはわずか11歳で時計職人に弟子入りしている。
      17歳の頃、ディートリヒ・マリア・オール (Diderich Maria Aall)が彼の才能を発掘し、クリスチャニア (現在のオスロ)のヴィルヘルム・フォン・ハンノ (Wilhelm von Hanno)の芸術学校で学ぶことになる。
      更に、オールからの潤沢な支援によって、バイエルン王国(現:ドイツ)のミュンヘンに留学している。
      しかし、1879年になるとオールがキッテルセンのサポートを行うことができなくなってしまう。
      そのため、キッテルセンは、新聞や雑誌の製図工として働き稼がなければならなかった。

      1882年にはパリへ留学するための奨学金が付与される。
      5年後の1887年にノルウェーに戻る。
      ノルウェーに戻った時、彼はノルウェーの自然から大きなインスピレーションを受ける。
      ノルウェーに帰ってからの2年間は、キッテルセンは彼の姉妹とその夫の住むノルウェー北部のロフォーテン諸島で過ごした。
      また、キッテルセンはこの頃から彼が描いた絵画に文章をつけるようになった。

      テオドール・キッテルセンと彼の家族は、1899年からノルウェー南部のブスケルー県プレストフォス(ノルウェー語(ブークモール)版)の近くに家とラウヴリア (Lauvlia)と名付けたアートスタジオを構えた。
      ここでの活動は、彼にとって、最も良いものとなった。
      この期間中には、ノルウェー民話収集家のペテル・クリスティン・アスビョルンセンとヨルゲン・モー(ノルウェー語(ブークモール)版)によって書かれたノルウェー民話集の挿絵の仕事を請け負っている。
      1908年には、ノルウェー王国の聖オラフ勲章(ノルウェー語(ブークモール)版)を受賞しナイトとなった。
      しかし、これから間もなく体調を崩すようになり、1910年にはラウヴリアを売却せざるを得なくなった。
      1911年には、芸術家への給付金も支給されるようになるが、1914年1月14日、ノルウェー南部のエストフォル県モス近くのイェロヤ(ノルウェー語(ブークモール)版)で死去した。
      56歳没。

      テオドール・キッテルセンの絵は、ロマン主義とナイーブ・ペインティングの間に分類される。
      ノルウェーでは、自国の画家として高い尊敬を集め、広く知られている画家である。
      しかしその一方で、国際的に認められた画家やアーティストに含まれることは少なく、ノルウェー国外ではあまり知られていない画家でもある。

      テオドール・キッテルセンが画家として活動したアートスタジオ兼自宅のラウヴリアは、プレストフォス(ノルウェー語(ブークモール)版)の北、国道287号線傍に位置しており、ソネレン湖の傍の風光明媚な場所であった。
      ソネレン湖の北数キロの位置に、ソネレン湖を見下ろすアンネシュナッテン山があり、キッテルセンの有名な風景画のいくつかはこの山にインスパイアされた。
      ラウヴリアは保存されており、現在はキッテルセンの作品を展示するプライヴェート美術館となっている。
      ラウヴリアはキッテルセンの木彫り彫刻や壁画で飾られている。
      また、キッテルセンの作品の展示は毎年変更されており、これと同時に子供達の絵画教室も行われる。
      この展示変更は、ローテーションして行われている。

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      【フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター】☆買取コム

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        今回はフランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターです。

        フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター(Franz Xaver Winterhalter,1805年4月20日 - 1873年7月8日)は、ドイツの画家・版画家。
        19世紀中葉の王侯貴族の肖像画で知られ、派手やかな宮廷肖像画の代表的存在である。

        パリを拠点にヨーロッパ中の貴族の肖像画を描いた。
        ヴィクトリア女王のお気に入りの画家であった。
        他にナポレオン・ボナパルト、フランス国王ルイ・フィリップなどの肖像画も手がけた。

        フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルターは、1805年4月20日にバーデン大公国、シュヴァルツヴァルトにあるメンツェンシュヴァント(Menzenschwand、現在のザンクト・ブラージエンSt.Blasienの一部)という小さな村で、フィーデル・ヴィンターハルター(Fidel Winterhalter、1773-1863)の第6子として生まれた。
        フィーデルは村の農家兼松脂職人で、その妻エーファ・マイヤー(Eva Meyer、1765-1838)は旧家の出であった。
        父親は代々の農民で、ヴィンターハルターはこの父親から強い影響を受けた。
        8人きょうだいのうち生き残ったのは4人だったが、生涯を通じてヴィンターハルターは家族、特に同じく画家であった弟のヘルマン・フィーデル・ヴィンターハルター(Hermann Winterhalter、1808-1891)と非常に良好な関係を保った。

        ザンクト・ブラージエンのベネディクト派修道会に学んだのち、ヴィンターハルターは1818年に絵と彫刻を学ぶため、13歳で故郷メンツェンシュヴァントを離れ、フライブルク・イム・ブライスガウのカール・ルードヴィヒ・シューラー(Karl Ludwig Schüler、1785-1852)の工房でデッサンとリトグラフの職業訓練を受けた。
        1823年、18歳のときミュンヘンに行き実業家フォン・アイヒタール男爵(David von Eichthal、1775-1850)の後援を受ける。
        1825年、バーデン大公ルートヴィヒ1世(1763-1830)より奨学金を得てミュンヘン芸術アカデミーに留学し、ペーター・フォン・コルネーリウス(Peter von Cornelius、1783-1867)の下で絵画を学ぶもコルネーリウスの伝統的な技法には馴染めず、もっと自分に合う師を探し上流貴族御用達の肖像画家ヨーゼフ・シュティーラー(Joseph Stieler、1781-1858)について学んだ。
        この時期、ヴィンターハルターはリトグラファーとして生計を立てた。

        1828年、ヴィンターハルターはカールスルーエのバーデン大公レオポルト1世の妃ゾフィーの絵の師範になり、社交界に入った。
        レオポルト大公の支援により1832年から1834年までイタリアに旅行し、活躍の場を南ドイツの外に広げることになる。
        ヴィンターハルターはローマでルイ=レオポール・ロベール(Louis-Leopold Robert)の様式によるロマン主義的な風俗画を製作し、フランス学士院長オラース・ヴェルネ(Horace Vernet)の知遇を得た。
        カールスルーエに戻ると、レオポルト大公夫妻の肖像画を描き、大公の宮廷画家となった。

        しかしヴィンターハルターはバーデンを離れ、イタリアで描いた風俗画『甘やかな安逸(Il dolce Farniente)』が1836年のサロンで注目されていたフランスへと移った。
        翌年製作の『デカメロン(Il Decameron)』も賞賛された。
        どちらもラファエロ様式の保守的な作品である。
        1838年、公女と並んで座るヴァーグラム公(Napoléon Alexandre Berthier)の肖像画をサロンに出品した。
         また同年、ベルギー王妃ルイーズ=マリーとその息子ブラバント公の肖像を描き、またたく間に肖像画家としての地位を確固たるものとした。
        おそらくこの絵を通じてヴィンターハルターの名は、ベルギー王妃の母でもあるフランス王妃マリー・アメリー・ド・ブルボンの知るところとなったと考えられる。

        パリでヴィンターハルターはたちまち人気者になった。
        フランス国王ルイ・フィリップの宮廷画家に任命され、国王はヴィンターハルターに一族の肖像画を依頼、ヴィンターハルターは30点以上の作品を制作することになった。

        この成功によりヴィンターハルターは、モデルによく似せながら実物以上に絵を引き立て、公式の装束に当世風の流行で華を添えることの巧みな王侯貴族専門の肖像画家として好評を得た。

        しかし美術界でのヴィンターハルターの評判は芳しくなく、1836年のサロン・デビューを賞賛した批評家たちからも、真面目に取り上げるべき画家ではないと切り捨てられた。
        この評価はヴィンターハルターの経歴を通じてつきまとい、宗教画・歴史画を重んじ風俗画を軽視する傾向の中で肖像画製作のみを余儀なくされることとなる。
        ヴィンターハルター自身は王家からの初期の依頼を、歴史画、宗教画などの大きな主題のある絵画(subject painting)や学術的に評価される分野へ戻る前の一時的な寄り道とみていた。
        しかし結局は自身の成功に引きずられ、後半生のほとんどを肖像画家として活動することになった。
        ヴィンターハルターにとっては、肖像画こそが成功と富を得た分野であり、王侯貴族の後援を受け国際的著名人となっていく。

        多くの王室肖像画のモデルにはヴィクトリア女王もいた。
        1842年に初めてイギリスを訪問して以来、ヴィクトリア女王とアルバート公、さらには増えていく2人の家族を描くために幾度となく再訪して少なくとも120点の絵画を製作した。
        その多くは王室所蔵品(Royal Collection)としてバッキンガム宮殿ほかの王宮で公開展示されている。
        ヴィンターハルターはまたイギリス貴族の肖像を何点か製作しているが、そのほとんどが宮廷と社交のあった人物である。
        1848年のルイ・フィリップの亡命にも評判を落とすことはなく、ヴィンターハルターはスイスへ行き、ベルギーとイギリスで仕事をした。

        王朝の瓦解から次の王朝の興隆まで、ヴィンターハルターは不遇の時代を耐え続ける。
        死の数年前までパリを離れることはなく、フランスでの肖像画依頼が途絶えると、歴史画のような古典的分野に戻り『フロリダ(Florida)』(1852、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)を描いている。
        スペインの伝承をもとに女性美を賛美した喜悦に満ちた作品である。
        同年、婚約を破棄され、独身のまま絵画制作に専念した。

        ナポレオン3世即位後、ヴィンターハルターの人気は上昇し、以降フランス第二帝政下でフランス皇室の宮廷主席画家となった。
        美しいウジェニー皇后を好んでモデルとし、皇后もヴィンターハルターの要請に積極的に応じた。
        1855年、ヴィンターハルターは傑作『侍女に囲まれたウジェニー皇后の肖像(Portrait de l'Impératrice Eugénie entourée de ses dames d'honneur)』を描く。
        この絵でヴィンターハルターは、牧歌的な光景の中に、侍女とともに仲良く輪になって花を集めるフランス皇后を配した。
        この絵は賞賛を浴び、1855年の万国博覧会で展示された。
        今なおヴィンターハルターの最も有名な作品である。

        1852年、ヴィンターハルターはスペインに行き、イサベル2世女王と娘マリア・イザベル王女の肖像画を描いた。
        パリを訪れたロシア貴族も競ってこの高名な巨匠に肖像画を注文した。
        その後、「王侯の画家」の異名を授かったヴィンターハルターの元にはイギリス王室(1841年から)をはじめスペイン、ベルギー、ロシア、メキシコ、ドイツ各地、フランスの各皇室、王室から依頼が相次いだ。
        ポーランド貴族、ロシア貴族を描いた重要な肖像画も数多く製作している。
        1857年にはロシア皇后(Царица)マリア・アレクサンドロヴナの肖像画を描いている。

        1860年代のマクシミリアン1世による第2次メキシコ帝国下で、ヴィンターハルターは皇帝皇后両陛下の肖像画製作を請け負った。
        メキシコ皇后シャルロッテの母は、フランスで画業を始めた頃にヴィンターハルターが肖像画を描いたベルギー女王ルイーズ・マリーであった。
        メキシコ皇室関係者の肖像画のいくつかは今もメキシコシティの皇宮チャプルテペク城(Castillo de Chapultepec)、現在の国立歴史博物館(Museo Nacional de Historia)にある。

        肖像画依頼が殺到し、しかもその多くは同時に複数枚数の製作を求める依頼だったため、ヴィンターハルターは助手を多数使って対処した。
        これほどまでも王侯からの寵愛を受けた肖像画家は過去になく、ヴィンターハルターほどの国際的活躍を見せた画家もわずかにルーベンス、ヴァン・ダイクを数えるのみである。

        ヴィンターハルターは仕事による忙殺から身を休めるためイタリア、スイスなどの外国、とりわけドイツで休暇を過ごした。
        大変な成功と人気を得ながら生活はごくつましかったヴィンターハルターだったが、長年のフランス暮らしにもかかわらず故国ドイツへの愛着は深く、1859年、お気に入りの保養地バーデン=バーデンに別荘を買っている。

        1864年はヴィンターハルターにとってイギリス最後の訪問の年となった。
        同年秋にはウィーンに行き、最も有名な作品のひとつであるフランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベトの肖像画を製作している。
        齢を重ねるごとにヴィンターハルターのフランスとのつながりは弱まり、ドイツへの関心は増していった。
        療養のためスイス滞在中に普仏戦争が勃発し、その結果1870年9月にフランス第二帝政は終わりを告げる。
        戦争終結後もヴィンターハルターはフランスには戻らずバーデンへと赴き、そこでバーデン公認の宮廷画家に任じられ、カールスルーエに居を構えた。
        人生の最後の2年間はほとんど絵を描くこともなく、1873年夏、フランクフルト・アム・マイン滞在中に発疹チフスにかかり、7月8日に亡くなった。
        68歳だった。

        ヴィンターハルターが肖像画家としての全盛期を迎えたのはフランス第二帝政期以降であり、生涯後期の20年間に最高傑作を生み出すことになった。
        ヴィンターハルターは贅沢でくつろいだ時代の空気、快楽主義と愉悦に自身の様式を合わせていった。
        ヴィンターハルターの1850年代、60年代の女性モデルは初期作品とは身体的、性格的特徴を異にしており、控えめでも慎ましやかでもない。
        いっぽうで、男性の肖像画には個性的で記憶をとどめる作品は少ない。

        ヴィンターハルターは美術批評家からは賞賛を得られず、迎合的で上辺と見栄を繕った作品と常に批判されつづけた。
        しかし、パトロンの王侯貴族からは高く評価され、イギリス、フランス、スペイン、ロシア、ポルトガル、メキシコ、ベルギーの王家すべてから肖像画の注文が舞い込んだ。
        カンヴァス画の大作により非常に高い人気を得、リトグラフによる肖像画の複製も名声を広めるのに一役買った。

        ヴィンターハルターの肖像画は、ほのかに香るような親しみやすさで評価が高い。
        その魅力の本質は難解な説明を要するものではない。
        ヴィンターハルターは、モデルが民衆にアピールしたいと望むとおりのイメージを作り上げた。
        モデルのポーズ取りに巧みで芝居に近いほどの構成感を生み出すうえ、生地や毛皮、宝飾品にもモデルの表情と同じくらい意識を置き、その質感を伝える技法にも卓越していた。
        製作は非常に早くまたよどみがなく、多くの場合下絵なしでカンヴァスの上に直接構図を配置した。
        その肖像画は優美で洗練され、実物そっくりで、しかも好ましい理想化が加えられている。

        ヴィンターハルターの製作手法は、人物の描画・造形に十分な訓練を積んでいるとはいえ、下準備なしでカンヴァスに直接描いていくというものであったと考えられている。
        ヴィンターハルターがモデルの衣装やポーズを決めることもよくあった。
        その様式は、優雅かつコスモポリタン的で、真実らしさに満ちたものである。
        肖像画の多くは自身の工房で、またリトグラフの形で複製された。

        ヴィンターハルターを美術史の中に位置づけるのは難しい。
        ヴィンターハルターに比肩しうる存在は容易にみあたらず、またどの流派にも収まりきらない。
        初期作品は新古典主義に近いが、その様式は新ロココ調とも呼べるものである。
        死後、ヴィンターハルターの絵画はロマン主義的で外面だけの浅薄なものだとして好まれなくなった。
        人物・生涯についてもほとんど知られることがなく、近年までその芸術を真摯に取り上げられることもなかった。
        しかし1987年、イギリスのナショナル・ポートレート・ギャラリーやフランスのプティ・パレで大規模な展覧会が開かれ、再び脚光を浴びることになる。
        今日その作品はヨーロッパ、アメリカの第一級の美術館で展示されている。

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        【トーマス・ローレンス】 ☆買取コム

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          今回はトーマス・ローレンスです。

          1769年の今日はトーマス・ローレンスの誕生日であります。

          サー・トーマス・ローレンスは、イギリスの画家。

          ブリストルで生まれた。
          父は宿屋の主人で、最初にブリストルで、のちにデヴィゼス(ウィルトシャーの町)で経営していた。
          6歳のトーマスは、客の好きな物を描いたり、ジョン・ミルトンの晩年の演説をするなど、子供ながらその片鱗を見せていた。
          1779年に事業の失敗で父はデヴィゼスを離れなければならなくなり、トーマスの早熟の才能が、家族の主たる収入源となっていった。
          彼はバース・ロード沿いで評判を得ていた。
          デビューはオックスフォードでのクレヨン肖像画家としてで、その時には後援者がついていた。
          1782年、一家はバースへ移り住んだ。
          若い芸術家トーマスは、すぐに1ギニーや1ギニー半でお洒落な人々の好むクレヨンで絵を描いて収入を得ていた。
          1784年、トーマスは賞をもらい、クレヨン芸術協会の銀製パレットを手に入れた。
          彼はラファエロ・サンティの『変容』を描いた後、油絵で描き始めた。

          絵で身を立てる決意をしたトーマスは、1787年にロンドンへ出て、ジョシュア・レノルズに親切に迎えられてロイヤル・アカデミーの生徒となった。
          彼はほとんどすぐに絵を展示し始め、評判もたちまち上がり、1791年にはアカデミー会員となった。
          1792年にレノルズが亡くなると、さらなる成功への道が開けた。
          トーマスはただちにディレッタンティ協会の画家に任命され、レノルズの代わりに国王ジョージ3世のお抱え画家となった。
          1794年、彼は当代の社交界や王侯の肖像画を描くようになった。
          顧客にはイギリス一高名な人々も含まれていた。
          王太子妃キャロライン・オブ・ブランズウィックは彼の気に入りの主題の一つであったために、一時はキャロラインとの仲を疑われた。
          1885年、トーマスはナイトに授爵された。
          1818年、トーマスは依頼を受けてアーヘンへ行き、王侯や外交官たちの肖像を描いた。
          ウィーンとローマへも足を伸ばした。
          どこでも王侯から、際だって実物よりよく見せるやり方が気に入られ、芸術家として自身の利益になるように心得た宮廷儀礼も同様であった。
          18ヶ月後に帰国し、彼が到着した日には、数日前に亡くなっていたベンジャミン・ウエストの部屋で、ロイヤル・アカデミーの会長職に選ばれた。
          1820年から会長職に就き、死の年まで務めた。
          彼は生涯結婚しなかった。

          トーマス・ローレンスは、個人的な儀礼の資質と、流行の画家になるにふさわしい芸術の腕との両方を持っていた。
          そして、イギリスの肖像画家として高位に就いた。
          彼のより野心的な作品は古典様式で、彼のかつての著名な『サタン』像は今ほとんど忘れ去られている。

          ローレンスの作品が最も展示されるのはウィンザーのウォータールー・ギャラリーである。
          収蔵品のほとんどは歴史的興味をひかれる。
          『ランプトン少年像』(Master Charles william Lambton)は600ギニーの価格でダーラム卿のため描かれた。
          これは彼の最高傑作の一つに数えられる。


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          筆:S
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          【フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス】 ☆買取コム

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            こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

            今回はフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスです。

            1746年の今日は、フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスの誕生日であります。

            フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスは、スペインの画家。
            ディエゴ・ベラスケスとともに、スペイン最大の画家。
            ベラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。

            1746年、スペイン北東部サラゴサ近郊のフエンデトードス(Fuendetodos, 当初はFuentedetodos フエンテデトードスと呼ばれていた。
            la fuente de todos“総ての者の泉”という意味)に生まれる。
            父親は鍍金師であり、芸術を愛好する気風の中で育った。
            14歳の時から約4年間、サラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。
            この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ(バイユー)(en:Francisco Bayeu y Subías)、その弟ラモーン・バエウ(en:Ramón Bayeu)に出会う。
            1763年と1766年の2回、サン・フェルナンド王立アカデミーに出品したが落選している。
            1770年、大画家を目指してイタリアのローマに出た。
            イタリア滞在中にルネサンスの傑作に出会い、フレスコ画の技法を学んだ。
            パレルモ・アカデミーから奨励賞を受けた。
            1771年(25歳)帰国した。
            1772年サラゴザのピラール聖母教会から大聖堂の天井装飾の注文も受け、そのほかも任された。

            27歳の時、バエウの妹ホセーファ(en:Josefa Bayeu)と結婚。

            1774年、バエウの手引きでマドリードへ出て、1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わる。

            1786年、40歳で国王カルロス3世付き画家となり、1789年には新王カルロス4世の宮廷画家となる。

            このように、40歳代にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。
            今日ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』(en:Charles IV of Spain and His Family)、『着衣のマハ』、『裸のマハ』、『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』(en:The Colossus (painting))などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである。

            1807年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインへ侵攻し、翌1808年にはナポレオンの兄ジョゼフをホセ1世としてスペイン王位につけた。
            事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から1814年にかけてスペイン独立戦争のさなかにあった。

            こうした動乱の時期に描かれたのが『マドリード、1808年5月3日』、『巨人』などの作品群である。
            1810年には版画集『戦争の惨禍』に着手している。
            1815年、すでに69歳に達していたゴヤは、40歳以上も年下のレオカディア・バイス(Leocadia Weiss)というドイツ系の家政婦と同棲していた(妻ホセーファはその3年ほど前に死去)。

            1819年にはマドリード郊外に「聾者の家」(es:Quinta del Sordo)と通称される別荘を購入した。
            1820年から1823年にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「黒い絵」と通称されるものである。

            当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて1824年、78歳の時にフランスに亡命。
            1826年マドリードに一時帰国し、宮廷画家の辞職を認められる。
            1828年、亡命先のボルドーにおいて82年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

            現在は、マドリードのプリンシペ・ピオ駅にほど近いサン・アントーニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂 (Ermita de San Antonio de la Florida)、通称:ゴヤのパンテオン (Panteón de Goya) に眠っている。
            この聖堂の天井に描かれたフレスコ画、『聖アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。
            なお、ゴヤの遺骸の頭蓋骨は失われている。
            亡命先の墓地に埋葬されている期間に盗掘に遭ったためだが、その犯人も目的も、その後の頭蓋骨の所在についても一切が不明のままである。

            カルロス4世とその家族を描いた集団肖像画は、一見普通の宮廷肖像画に見えるが、仔細に見ると、いかにも暗愚そうなカルロス4世の風貌や、絵の中心に据えられた狡猾で底意地の悪そうな夫人の表情などには、ゴヤの精一杯の風刺が感じられる。
            さらに、ゴヤは背後に自身の姿まで書き込んでいる。

            日本にあるゴヤの油彩画としては、東京富士美術館の『ブルボン=ブラガンサ家の王子、ドン・セバスティアン・マリー・ガブリエル』、三重県立美術館の『アルベルト・フォラステールの肖像』が挙げられる。
            ゴヤの版画となるともう少し多くなり、国立西洋美術館、町田市立国際版画美術館、神奈川県立近代美術館、姫路市立美術館、長崎県美術館などが所蔵し、企画展などの際に展示される。
            また、大塚国際美術館では、ゴヤの「聾者の家」を当時そのままの配置で再現している。

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            筆:S
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            【北大路 魯山人】 ☆買取コム

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              こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

              今回は北大路 魯山人です。

              1883年の今日は、北大路 魯山人の誕生日であります。

              北大路 魯山人は、日本の芸術家。
              本名は北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)。

              晩年まで、篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。


              1883年(明治16年)、京都市上賀茂(現在の京都市北区)北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめ(社家・西池家の出身)の次男として生まれる。
              生活は貧しく、魯山人の上に夫の連れ子が一人いた。
              魯山人が生まれる前に父親が自殺、母親も失踪したため親戚をたらい回しにされる。
              一度農家に養子に出されるが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業。
              画家になるための学校に通いたいと申し出るが、家業を継がせるつもりだった養父母は激怒。
              京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出された。

              奉公を終えて養父母宅に戻ったのち、実の母の居所が分かり会いに行ったものの受け入れられず、1903年(明治36年)、書家になることを志して上京。
              翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現す。
              1905年(明治38年)、町書家・岡本可亭の内弟子となり、1908年(明治41年)から中国北部を旅行し、書道や篆刻を学んだ。
              また、朝鮮総督府に書記として勤めた。

              帰国後の1910年(明治43年)に長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供された。
              ここで魯山人は福田大観の号で小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。
              そして敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる紫田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。
              その款印を気に入った栖鳳が門下の土田麦僊らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まり、名を高めていくことになった。

              1915年(大正4年)、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。
              その後も長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。
              1917年(大正6年)、便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営することになる。
              大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになり、1921年(大正10年)、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。
              自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。
              1925年(大正14年)3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始めた。

              1927年(昭和2年)には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。
              1928年(昭和3年)には日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う。
              魯山人の横暴さや出費の多さから、1936年(昭和11年)、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年(昭和20年)の空襲により焼失した。

              戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年(昭和21年)には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。
              また1951年(昭和26年)に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させた。
              1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問。
              1955年(昭和30年)には織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退。

              1959年(昭和34年)に肝吸虫(古くは「肝臓ジストマ」と呼ばれた寄生虫)による肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。


              魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は割腹自殺を遂げた。
              生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とした。
              この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼした。

              6度の結婚(1908年、17年、27年、38年、40年、48年)はすべて破綻、2人の男児は夭折した。
              娘を溺愛したものの長じて魯山人の骨董を持ち出したことから勘当し、最晩年にいたっても魯山人の病床に呼ぶことすら許さなかった。
              その一方、家庭の温かみに飢えていた魯山人は、ラジオのホームドラマの何気ない会話、微笑ましい場面によく肩を震わせ涙を流して嗚咽したという。

              美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。

              つねに傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、柳宗悦・梅原龍三郎・横山大観・小林秀雄といった戦前を代表する芸術家・批評家から、世界的画家・ピカソまでをも容赦なく罵倒した。
              この傲慢な態度と物言いが祟り、1936年(昭和11年)に星岡茶寮から追放されてしまう。
              逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王・吉田茂などから愛されもした。

              気難しい人物で、晩年魯山人の家で働いていたお手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。
              それができなくて叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」とのこと。

              阪急電鉄の創業者・小林一三は、阪急百貨店で魯山人の個展を開いていた。
              その折、小林は、魯山人に対して、「少しでも安く売るようにしてほしい」と伝える内容の文章を、同百貨店の美術誌に掲載した。
              これに対し魯山人は、1943年(昭和18年)10月19日付で小林に宛てた手紙で、「これが高いと言われるのは不愉快だ」と反論し、さらに、同月17日には、その美術誌編集者を小林が気に入っていることが不思議だと、小林自身に対しても批判した上、展覧会中止を申し出た。

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              【ヤン・ファン・ホーイェン】 ☆買取コム

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                こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

                今回はヤン・ファン・ホーイェンです。


                1595年の今日は、ヤン・ファン・ホーイェンの誕生日であります。

                ライデンで生まれ、10歳の頃から複数の親方画家の下で修行していた。
                1617年頃、ハールレムに出てエサイアス・ファン・デ・フェルデの元で
                風景画の技法を習ってから才能を花開かせ、
                30歳の頃には師の作品と見紛うかのような作品を描くようになった。

                彼は作品に自己の署名かモノグラム及び製作年月日を挿入する癖があったために、
                創作年代がはっきりとしている画家の1人である。
                従って、彼の画風の変化を感じとることが容易である。
                修行時代の彼の絵は強い色彩と分散的な構図が特徴的であるが、
                次第に一定の色調と簡素で統一的な構図を採るようになり、
                1630年代に入ると金色がかった茶色や淡い緑色を使った淡色風景画を描くことが多くなり、
                後に「色調の時代」と呼ばれた。
                更に水平と垂直の2要素を組み合わせた堅固な構図を用いながら、
                1640年代から晩年にかけてより強い明暗のコントラストを用いながら、
                表現力に富んだ風景画を描くようになった。
                彼の自由で直截な様式と生き生きとした筆遣いに裏打ちされた彼の画風は、
                「オランダ風景画」の形成に重大な役割を果たしたと考えられている。

                彼は、オランダ国内外を旅行して各地で風景画を描き続けたが、
                1631年に生活の拠点をハーグに移した。
                彼はここを中心として『川の眺め』(1636年)、『村と砂丘』(1647年)、
                そして最晩年の代表作である『夕べの静けさ』(1656年)などを描いた。
                彼の名声は高く、1651年にはハーグの市長室を飾る市のパノラマ風景画を担当した。
                しかも、彼は非常に多くの仕事をこなし、
                現存する絵だけで1,000枚以上確認でき、
                更にそれに匹敵する素描も残されている。
                失われた絵も含めれば相当な数にのぼる。
                にも関わらず、彼は様々な投資を行っては失敗し続けていたため、
                彼は多くの収入を得ながら貧困に悩まされ、没したときには破産間際であったという。
                しかも没後に急激に評価を落とし、19世紀末期に再評価されるまで「忘れられた画家」となっていた。

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                【タラス・シェフチェンコ】 ☆買取コム

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                  こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

                  今回はタラス・シェフチェンコです。

                  1814年の今日はタラス・シェフチェンコの誕生日であります。


                  タラス・フルィホローヴィチ・シェフチェンコはウクライナの詩人、画家である。
                  ウクライナ語名はタラス・シェウチェンコ。
                  近代ウクライナ語文学の始祖と評価されている。

                  農奴制に反対し、秘密結社「聖キリルと聖メソジウス団(Кирило-Мефодіївське братство)」に関わって(ただし正式なメンバーではなかったと見られている)、ウクライナの農奴の解放に力を尽くした。
                  1847年4月5日に同結社に手入れが入った際に、シェフチェンコが書いた皇帝ニコライ1世とその妻アレクサンドラを批判する詩が見つかり逮捕された。
                  サンクトペテルブルクの刑務所に入れられた後、10年間の流刑生活を送った。
                  皇帝の命により、流刑の間はペンと筆を持つことを禁止された。

                  画家としての才能も優れていて有名である。
                  ウクライナ国内では人気が高く、首都キエフには彼の名を冠したタラス・シェフチェンコ記念キエフ国立大学がある。

                  タラス・シェフチェンコは1814年3月9日、ロシア帝国領ウクライナ、キエフ県モールィンツィ村、農奴の家で生まれた。
                  幼い頃より輔祭が営んでいた学校で読み書きを習いながら、絵画を独学していた。
                  11歳の時にシェフチェンコは孤児になり、14歳にヴィリシャーナ村の地主、ドイツ系ロシア貴族パヴェル・エンゲリガルドトの家庭で小使を務めはじめた。

                  1829年に地主を伴い、ロシア帝国領リトアニアのヴィリニュスへ移り、1831年以降は帝国の首都ペテルブルクに住むようになった。
                  地主はシェフチェンコを家庭画家にする予定があったので、シェフチェンコはロシア画家V.シリャイエフの弟子となり、美術を習うこととなった。
                  この頃から、シェフチェンコは密かに詩を書くようになる。

                  シェフチェンコの作品はロシアの画家たちカール・ブリューロフ、イヴァン・ソシェンコ、アレクセイ・ヴェネツィアノフと、詩人たちヴァシリー・ジュコフスキーとイェヴゲン・フレビーンカなどによって高く評価され、1838年にシェフチェンコ自身は彼らの努力によって農奴制から解放された。
                  同年、上述した文化人たちの推薦によってシェフチェンコはロシア帝国美術大学に入学し、ブリューロフの弟子となった。

                  1840年にシェフチェンコは、美術大学に在籍しながら、有名な詩集『コブザール』を著した。
                  詩集はウクライナ語で書かれていたので、ヴィッサリオン・ベリンスキーをはじめとするロシアの知識人はシェフチェンコを「いなかっぺの言葉」を用いる「いなかっぺの詩人」として鋭く批判した。
                  一方、ウクライナの文化人たちは、『コブザール』を絶賛した。
                  都の批判に対しシェフチェンコは、ウクライナ・コサック時代を英雄化する『ハイダマークィ』(1841年)と『ハマリア』(1844年)という二つの物語詩を出版した。

                  1843年にシェフチェンコはウクライナに戻り、史学者ムィハーロ・マクスィモーヴィチと作家パンテレイモーン・クリーシュと知り合い、『絵のように美しいウクライナ』という絵画シリーズを作り始めた。
                  大学に戻ったシェフチェンコは、1844年に反農奴制と反帝国主義を説く『夢』という政治的物語詩を著した。

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                  【坂本 繁二郎】 ☆買取コム

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                    こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

                    今回は坂本 繁二郎です。

                    1882年の今日は坂本 繁二郎の誕生日であります。

                    坂本 繁二郎は、明治後期〜昭和期の洋画家である。

                    1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。
                    坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は有馬藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。
                    前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。
                    1907年(明治40年)『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。
                    1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。
                    1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。
                    1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。
                    第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)毎日美術賞、1956年(昭和31年)文化勲章を受章。1969年(昭和44年)87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。
                    坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。

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                    【大島紬】都喜エ門 ☆買取コム

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                      こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

                      今回は骨董/アンティーク/着物【大島紬です。


                      先日お買取した、手織りの大島紬【都喜エ門】です。
                      長期間保管されていたそうですが、かなり状態もよく
                      高価買取させていただきました。

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