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【坂本 繁二郎】 ☆買取コム

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    こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ 

    今回は坂本 繁二郎です。

    1882年の今日は坂本 繁二郎の誕生日であります。

    坂本 繁二郎は、明治後期〜昭和期の洋画家である。

    1882年(明治15年)、福岡県久留米市に生まれる。同じ年、同じ久留米に生まれた画家の青木繁がいる。
    坂本は10歳になると、地元久留米在住の画家・森三美に師事して絵を学んだ。高等小学校に上がる頃には、絵の腕前は相当なもので、「神童」と持てはやされたという。坂本の父・金三郎は有馬藩の中級武士であったが、坂本が4歳の時に死去していた。金三郎の長男で、やがて家長となるべき長兄・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめざるをえず、高等小学校卒業後、5年ほどはもっぱら画作に時を過ごした。
    前述の森三美は久留米高等小学校の図画教師をしていたが、他校へ転任するにあたり坂本を自分の後任として指名した。その結果、坂本は1900年(明治33年)、母校の図画代用教員となった。その頃、ライバルの青木繁は東京で絵の勉強をしていたが、1902年(明治35年)、徴兵検査のため、郷里に戻ってきた。青木は坂本に東京で描いた絵を見せたが、この時青木の画技の上達に驚いた坂本は自らも上京して絵を学ぶことを決意し、わずか数か月後には青木とともに上京して、小山正太郎の「不同舎」に入った。坂本の満20歳の時であった。
    1907年(明治40年)『北茂安村』が第1回文展に入選している。1912年(大正2年)第6回文展に出品した『うすれ日』は、夏目漱石が高く評価したことで知られている。1914年(大正3年)には二科会創立に参加。
    1921年(大正10年)に渡仏し、シャルル・ゲランに師事する。しかし、フランスに着いた坂本が魅せられたのは、名だたる巨匠たちの絵ではなく、その自然であった。かつて印象派を生み、育んだ明るい光と風に虜になった坂本は、その柔らかい色彩はより明るく、鮮やかさを増した。1923年(大正12年)の『ブルターニュ』は、物の形を単純化し、色彩を重ねることで表現され、写実を超えて見る者の想像力へ訴える画法へと進化を遂げた。坂本はこの画法を用いて肖像画にも挑み、同年の『帽子を持てる女』は優しくしかも強さをも秘めた存在感を持つ女性を描き、本場の画家たちから高く評価された。
    1924年(大正13年)9月に郷里の久留米に戻り、以後は東京へ戻ることはなく、終生九州で制作を続けた。1927年(昭和2年)の『放水路の雲』は、フランスで身につけた手法で地元の風景を描いたものである。1931年(昭和6年)には友人の高校教師梅野満雄(青木繁作品のコレクターとしても知られる)の援助で、福岡県八女(やめ)の梅野宅の隣地にアトリエを建立。ここが以後の制作の拠点となる。
    1942年(昭和17年)に第29回二科美術展覧会では、坂本の還暦記念特別陳列も開かれ、一つの部屋に坂本の21作品を一挙に展示され、それまで未発表であった1927年(昭和2年)に描いた『母の像』も公開された。
    第二次大戦後は梅原龍三郎、安井曾太郎と並ぶ洋画会の巨匠と見なされるようになる。1954年(昭和29年)毎日美術賞、1956年(昭和31年)文化勲章を受章。1969年(昭和44年)87歳で没した。墓所は八女市無量寿院。
    坂本は代表作『水より上がる馬』をはじめとして馬の絵をよくしたが、第二次大戦後の柿、栗などの静物や能面をモチーフにした作品、最晩年の月を題材にした作品もそれぞれ独自の境地をひらいている。

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    筆:S
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