【ジュール・パスキン】☆買取コム
こんにちわ、担当Sです (=゚ω゚)ノ
筆:S
今回は【ジュール・パスキン】です。
1885年の今日はジュール・パスキンの誕生日であります。
ジュール・パスキンはブルガリア人の画家。
エコール・ド・パリ全盛の1920年代、モンパルナスで華やかな浪費生活をし「モンパルナスの王子」の異名を得た。
「パスキン」は、本名のピンカスのアナグラム。
ブルガリアのヴィディンに穀物商を営むユダヤ系一家に生まれる。
1902年、ヨーロッパや北アフリカ、アメリカなどを旅行。
ウィーン、ミュンヘン、ベルリンなどでデッサンを学ぶ。
ミュンヘンで「ジンプリツィシムス」の挿絵画家として専属契約を結び、早くも素描家として高い評価を得る。
1905年にパリへ移住。
本格的に油画に取り組む。
この年から「パスキン」の名を用いるようになる。
サロン・ドートンヌやアンデパンダン展に作品を発表する。
1913年にニューヨークで行われた大規模な展覧会「アーモリー・ショー」に選抜され出展(アーモリー・ショーはアメリカで初めて本格的にヨーロッパのモダンアートが紹介された展覧会。
デュシャンが『階段を降りる裸体No.2』を出展し名声を博した)。
1914年、第1次世界大戦を逃れてロンドンへ。
ニューヨークへ行き展覧会に出品。
具象的な作品を描き始める。
その後、フロリダ、キューバへ行く。
1918年にエルミヌ・ダヴィットと結婚し、アメリカの国籍を取得。
第1次世界大戦終結後の1921年、パリのモンマルトルに居を定める。
独自の画風を確立し、成熟期を迎える。
カフェの「ル・ドーム兄弟」や「ラ・クーポール」などで華やかな社交生活を送るも、アルコール依存症と鬱病に苦しむようになる。
そして、友人ペル・クローグの妻のリュシーと不倫関係になるが、彼の堕落した生活が原因で別れる。
1930年6月5日、自宅アトリエの浴槽で手首を切ったうえ、首を吊って自殺。
ドアに血文字で「ADIEU LUCY」(さよなら、リュシー)と書かれていた。
パスキンの葬儀が行われた6月7日、パリのすべてのギャラリーは閉じて喪に服した。
サントゥアン墓地までの5km近い道のりを、何千人もの知人がパスキンの棺の後に列を成したという。
彼の遺体は一年後、モンパルナス墓地に再埋葬された
ご自宅に、有名画家の絵画等御座いましたら、
ぜひ【買取コム】までご連絡ください。
高価現金買取させていただきます!
筆:S