テオドール・セヴェリン・キッテルセン (Theodor Severin Kittelsen、1857年4月27日-1914年1月21日)は、ノルウェーの画家。
ノルウェーで最も人気のある画家の一人である。
主に自然を描いた絵画 (風景画)と、伝説や説話の絵画、特にノルウェーの伝承に登場する妖精、トロール (troll)を描いた絵画で有名。
テオドール・キッテルセンは、ノルウェー南部ブラッツベルグ県の沿岸の街、クラーゲレー(ノルウェー語(ブークモール)版)で生まれる。
父は、テオドールが幼い時に苦しい生活の中、妻とテオドールを含む8人の子供を残して亡くなっている。
その後、テオドールはわずか11歳で時計職人に弟子入りしている。
17歳の頃、ディートリヒ・マリア・オール (Diderich Maria Aall)が彼の才能を発掘し、クリスチャニア (現在のオスロ)のヴィルヘルム・フォン・ハンノ (Wilhelm von Hanno)の芸術学校で学ぶことになる。
更に、オールからの潤沢な支援によって、バイエルン王国(現:ドイツ)のミュンヘンに留学している。
しかし、1879年になるとオールがキッテルセンのサポートを行うことができなくなってしまう。
そのため、キッテルセンは、新聞や雑誌の製図工として働き稼がなければならなかった。
1882年にはパリへ留学するための奨学金が付与される。
5年後の1887年にノルウェーに戻る。
ノルウェーに戻った時、彼はノルウェーの自然から大きなインスピレーションを受ける。
ノルウェーに帰ってからの2年間は、キッテルセンは彼の姉妹とその夫の住むノルウェー北部のロフォーテン諸島で過ごした。
また、キッテルセンはこの頃から彼が描いた絵画に文章をつけるようになった。
テオドール・キッテルセンと彼の家族は、1899年からノルウェー南部のブスケルー県プレストフォス(ノルウェー語(ブークモール)版)の近くに家とラウヴリア (Lauvlia)と名付けたアートスタジオを構えた。
ここでの活動は、彼にとって、最も良いものとなった。
この期間中には、ノルウェー民話収集家のペテル・クリスティン・アスビョルンセンとヨルゲン・モー(ノルウェー語(ブークモール)版)によって書かれたノルウェー民話集の挿絵の仕事を請け負っている。
1908年には、ノルウェー王国の聖オラフ勲章(ノルウェー語(ブークモール)版)を受賞しナイトとなった。
しかし、これから間もなく体調を崩すようになり、1910年にはラウヴリアを売却せざるを得なくなった。
1911年には、芸術家への給付金も支給されるようになるが、1914年1月14日、ノルウェー南部のエストフォル県モス近くのイェロヤ(ノルウェー語(ブークモール)版)で死去した。
56歳没。
テオドール・キッテルセンの絵は、ロマン主義とナイーブ・ペインティングの間に分類される。
ノルウェーでは、自国の画家として高い尊敬を集め、広く知られている画家である。
しかしその一方で、国際的に認められた画家やアーティストに含まれることは少なく、ノルウェー国外ではあまり知られていない画家でもある。
テオドール・キッテルセンが画家として活動したアートスタジオ兼自宅のラウヴリアは、プレストフォス(ノルウェー語(ブークモール)版)の北、国道287号線傍に位置しており、ソネレン湖の傍の風光明媚な場所であった。
ソネレン湖の北数キロの位置に、ソネレン湖を見下ろすアンネシュナッテン山があり、キッテルセンの有名な風景画のいくつかはこの山にインスパイアされた。
ラウヴリアは保存されており、現在はキッテルセンの作品を展示するプライヴェート美術館となっている。
ラウヴリアはキッテルセンの木彫り彫刻や壁画で飾られている。
また、キッテルセンの作品の展示は毎年変更されており、これと同時に子供達の絵画教室も行われる。
この展示変更は、ローテーションして行われている。